タオと猫の庭

反戦

なかにし礼さんの「天皇と日本国憲法」を読みました。

反戦と抵抗のための文化論という副題がついています。

今の日本の現状を見据え、やむにやまれぬ気持ちで書いた本だということが

随所から伝わって来ました。

危険な方向にむかって流れて行くわたしたちの国。

自分たちの国のゆくえなのに、どこかであきらめてしまっていやしないだろうか。

どうせ、ひとりひとりの声なんて届かないんだから。いつだってそうなんだからと。

でもそうじゃない。あきらめてはいけない。一人一人の思いと行動が大事。

心に刻みつけたくて、本の中から書き写した文章があります。

なかにしさんが癌と闘っていたときの話です。


「新しい医師に会うたび、癌を切らずに治す方法はないものかと必死になって訴えていた。

しかし、どの名医も、抗がん剤、手術、放射線による治療法を力説するばかりで

切らずに治す癌の治療法がこの世にあるらしいことを示唆してくれることさえしなかった。

ならば彼らは癌を切らずに治す治療法を情報として知らなかったのだろうか。

まさか癌の専門医ともあろうものが、そんなことがあってなるものか。

医師たちは知っていた。しかし、言わなかっただけだ。

 何か大きな力を持ったとてつもない怪物がわたしたち弱い人間を縦横に操っているような恐怖感を

うっすらとだが、わたしは感じた。なんど近づこうとしても城は遠ざかるばかりという、カフカ『城』の主人公Kの、あの心境だ。

これが現実社会というものだ、と、もはや年寄りとなったわたしは考える。

現実社会というものは、さまざまな欲望と野心、そして利害関係、その時その場の都合で働いている。

国民の幸福のためという大義名分もあるであろうし、大義名分に隠れた人命軽視もあるかもしれない。

理想を目指しつつも、今はその過程にあって、まだ公にできないという場合もあろう。それやこれや

無数の事情が入り組んで、わたしたち個人を取り巻き、また束縛しているという事実。こういうのを

官僚的というのだろうが、人々はこの事実に幻滅しつつも、やがて慣れて行く。

プラハのユダヤ人一家に生まれ、チェコで作家として生きたカフカは、

現実世界の不条理に日夜翻弄されたであろう。

そのカフカが怖れたものは、幻滅に対する慣れであった。

「幻滅に対する慣れ、知らず知らずのうちにたえず受けている力、

そういったものをKは怖れた。『城』」

そう。わたしも恐れるべきである。

決して、幻滅に対して慣れてはいけないのだ。

  『天皇と日本国憲法ー反戦と抵抗のための文化論」 なかにし礼   より


「われわれは、生きものの中でも唯一、堕落する才能を持った魔物である。」

「一方にどんなに素晴らしい発明があり、どんなに美しい芸術があろうとも、

戦争という愚行と文明の利器の名にすら値しない原子力発電所、

つまり堕落の象徴を持ち続ける限り、われわれのいきつく先は破滅であろう。」


  迷うことなく、九条を守ろう。

  他国の脅威に対抗する手段は、武力じゃなくてもきっとあるはずだと思います。

  わたしは本当の戦争のこわさを知らない。

  でも、それがどんなに恐ろしいものかは想像できる。

  特権階級は火中には飛び込まない、守られる。

  そして、ふつうのたくさんの人々は、悲しみと苦しみを味わう。

  だれのために  何の目的で

  命を投げ出すのか

  先の戦争のときよりも、もっともっと、戸惑いを覚えながら

  戦わなければならないはめになる。

二度と同じ過ちは繰り返さないと

  どれほどたくさんの人が祈ったか
             誓ったか

             それを忘れたのか。

    
  東京オリンピックもまた、たくさんの死者の魂鎮めでなければならない。

  となかにしさんも言っておられた。

  わたしも賛成です。

  そこから出た利益は、みな、震災の復興や戦禍の中の人々のために…

  そうでなければ祭りごとの意味はないと思います。

  そう言うオリンピックにしてこそ、日本で行われる価値があると思います。

  

  
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by f-azumi | 2014-07-07 20:34 | 暮らし | Trackback | Comments(0)
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